郊外のしごと
「日曜日がいらない」ひとりメーカー
ブリングハピネス
岩村 耕平
人生の転機となった中国との出会い
両親が公務員の家庭に育った岩村さん。高校時代までは、勉強をせず、自宅でゲームに没頭する落ちこぼれだったそうです。その中で、岩村さんが特に夢中になったのは「三国志」のゲーム。個性豊かな武将たちの人間ドラマが描かれる大作をゲームで体感するなかで、その舞台である中国への興味も高まっていきます。 高校卒業した1991年、岩村さんは地元近くにあった中国語の専門学校に通いだしました。時代はまさにバブルの終わりを迎えようとしていた時期。今でこそ中国語の学校は増えていますが、当時は非常に珍しかったそうで、同級生や周りの大人たちからなかなか理解されずにいました。それでも中国への興味は高まるばかりで、ご両親からの理解を得て専門学校に通い出しました。 専門学校での勉学の後、より深く中国語を学ぼうと中国やモンゴルを渡り歩き、25歳に帰国。そこから社会人としての生活がスタートしました。
「社長を助けたい」の思いから独立へ
商社、貿易会社などで中国語を活かした仕事に励みます。そして、3社目として転職したぬいぐるみメーカーで、今のパートナーとなる中国の靴下工場の社長と出会います。初めは、日中の商習慣の違いなどで、ぶつかり合う毎日でした。しかし、付き合いを重ねるうちに、本気でサービスの向上を考えている社長の思いに触れ、いつしか社長を助けたいと思うようになったそうです。 当時、岩村さんと奥様との間には6歳と3歳のお子様が二人。さらに自宅を購入してローンも抱えていました。そんな状況の中で、岩村さんは会社勤めで身につけたスキルや出会いを活かして、自分自身で稼ぐ力をつけていくタイミングだと考え、独立を決意。靴下工場の社長に「一緒にやろう」と持ちかけます。
子どもたちと毎晩一緒に寝るから、日曜日はいらない
独立開業という道を選んだ岩村さんには、家庭と仕事の両立したい、という狙いがありました。サラリーマン時代は勤務時間が定められ都心のオフィスに満員電車に揺られて通う日々。海外出張も多く、家族との時間はほとんどとれませんでした。またご両親も歳を重ねて体調を崩すことも多くあったそうで、このままだと家庭と仕事の両立が難しいと感じていたそうです。 独立してからは、平日と土日の境がなくなりました。毎日、子どもたちと一緒に寝て、学校に一緒に行って、といった生活なので、わざわざ休日という概念を作る必要がないそうです。 また、働く場所も自宅からほど近いオフィスを借りることで、満員電車に揺られること無く、オンとオフの切り替えができています。今の事務所はJR中央線の高架下にあるKO-TO。「近くに広い公園があって、そこによくブラブラ散歩に行きます。癒やしの環境があっていいんですよね。」と話されます。集中して仕事に取り組みたいときは、鎌倉のゲストハウスを借りて、一人合宿。まさに「時間」から開放され、「地理」から開放され、自由なはたらき方を実践されています。
自由を手に入れるために、自分がやるべきことに集中する
そんな岩村さんに、自由なはたらき方を実現するための秘策をお聞きしました。すると、「自分自身がやるべきことに集中する」ということでした。 岩村さんの業種は「メーカー」だといいます。モノを作る仕事で、全てはそこを起点に考えられています。逆に、モノを作る仕事以外は徹底的に自分でやらないと決めています。たとえば、営業はホームページにやってもらい、経理やデザインは外注化をしています。 また、依頼元の企業とのコミュニケーションは非常に重要だといいます。「仕様さえズレていなければ、期待通りの商品を製造することができます。しかし、仕様の段階で小さなズレがあると、実際に商品になると大きなトラブルになります。」ご自身で事業をはじめた頃は、そのようなトラブルも多く、痛い目にあったそうです。そんな中で、今では、ホームページから問い合わせいただいた全てのお客様を必ず訪問し、その場でトコトン仕様を詰めるそうです。「私たちはメーカー。仕様を工場に伝えて、確実に仕様通りのものをつくるのが自分たちの使命。企画が詰まりきっていない場合は、企業に差し戻すこともあります。」
自然体で流れるままに流される強さ
独特のやわらかい雰囲気でお話される岩村さんに、なぜ靴下という商材を選んだのかを聞くと、「正直、靴下へのこだわりがすごくある、というわけではないんです。中国の工場との出会いがあったからというのが正直な答えです。」そんな機会を自分のチャンスと捉え、それに自分自身を委ねて注力できるところが岩村さんの強さなのかもしれません。 自由を手に入れるために、集中すべきことに集中し、一方で、チャンスを敏感に察知し、そして一歩を踏み出す。そんな自由なはたらき方の中には、強さを感じます。三国志のゲームに没頭していた岩村さんにとって、「中国」と出会いは人生の転機であり、自然体で流れに身を委ねてきた中で、今の自由を掴んだのかもしれません。